コンテ松さんへの『拒否感』が言語化されていないのが気になる

現在アニメ「おそ松さん」にて開催されているコンテ松さんという企画がある。
視聴者から4コマ漫画を募集し、選ばれた作品がDVD特典のショートアニメになるという企画だ。
この企画がファンの間で賛否両論の激論を呼んでいる。
呼んでいるのだが、どうも賛成意見も反対意見もいまいち問題の芯を捉えていない気がして、ひとつ文章化してみたくなった。
時機を逃した感はあるが、せっかくなので公開しておく。


多く見られる意見

この企画で多く見られる意見は次の通りだ。

【反対派】現在のファンは女オタが大半、下心あるネタが混じっていたらどうする。特定の腐女子の作品が公式になるのは地獄。円盤買えない。
【賛成派】公式が選別するのだから危ないネタは弾かれる。スタッフだって腐女子かもしれない。特典なのだから再生しなければいいだけでは?

 

便宜上、反対派・賛成派としているが、純粋な賛成派とはまた毛色が異なるため、ここでの賛成派は「反対派の反対派」とした方が正確かもしれない。
twitterではこの種の意見が堂々巡りをしている。
反対派の意見に賛成派が反論し、反対派が『違うそうじゃない』となるという具合だ。
しかし、10月下旬にコンテ松さんが公開されてからそこそこの期間が経つが、どうも下記について言及する意見は(自分の調査不足かもしれないが)見当たらなかった。

それはつまり、「拒否感の根源がプロとアマの『安心感』の違い」なのではないか、という点だ。

 

我々はプロの仕事を購入する時、『安心感』も購入している


上記の賛成派・反対派が堂々巡りとなるのは、おおよそ「二次創作も公式が監修すれば公式、メディアミックスも別作者が書いている、何が違うのか?」という部分だ。
殆どの議論がここに集中しているのに対し、賛成派も反対派も、どこかふわっとした応酬を繰り返している印象がある。
要は反対派も「自分が何故嫌なのか」を自覚できていないし、賛成派も「反対派が何が嫌なのか」を理解できていないのだ。
(もちろん、論点を明確にする責任は主張する側にあるのだが。)
腐女子云々の話は最もやり玉に挙げられるが、おそらくそれは原因のひとつではあっても、本質ではない。

 

例を挙げよう。
あなたは高級レストランで、フルコースを注文しようとしている。
コースの説明を求めると、スタッフから「前菜は常連の料理の上手いお客様が作りました」と紹介された。
ここで不安や不快感を覚える人がいるとすれば、気になるのはきっと下記のような点ではないだろうか。

  • その人物の素性は大丈夫なのか。衛生面や、毒や有害物質を仕込まれる可能性は無いのか?
  • 前菜で食中毒でも起こった場合、責任は誰が取ってくれるのか。

等々。

こうした不安を覚えるのは、その「お客様」がレストランの運営や評判に何の責任もない、「アマチュア」だからだろう。
よくプロ=完璧に仕事をする人、とばかり解釈されることがあるが、「プロフェッショナル」は単に「その仕事で主たる収入を得ている人」のことも指す。
その“ 仕事で生計を立てていること”、これがなかなか侮れない。
先程のレストランで言えば、不味い料理を出し経営に失敗すれば路頭に迷うし、不衛生な環境で食中毒でも出せば評判はガタ落ちになる。
仕事上でのふるまいが、そのまま自身の生活にかかってくる訳だ。
そこからは必然的に、『仕事に関わる上で下手な真似はできない』という、悪く言えば縛り、よく言えば責任という形が生まれてくる。

 

我々はプロの仕事を購入する時、同時にその『安心感』にも対価を払っている。
全くの他人の料理を客が平気で口にできるのは、意識的にであれ無意識にであれ、その課せられた縛りから生じる責任感を、『安心感』として受け取っているからだろう。
対してアマチュアはその仕事に関していかな悪評が立っても、基本的には生活を脅かされることが無いから、必然その『安心感』は付随しない。
これはあくまで客側から見た『印象』の問題であり、実態とはまた別の話だ。
信頼できないプロや、信頼できるアマが個別の例として実在するとしても、肩書に対する第一印象にはさほど影響を与えない。

 

プロとアマの差異から見るコンテ松さんの印象


それを踏まえた上でコンテ松さんに立ち返ると、これら賛成派と反対派の論争は、『プロとアマの縛りの有無=安心感の差異』という切り口で、ほとんどカタが付く事が分かる。

おそらく、反対派は一貫して「公式作品を買うのに、最低限の安心感が付属しないのは嫌」と言っているだけなのだ。
腐女子云々や、ネタ云々はその事例のひとつに過ぎない。
実態とは別に、アマチュアであるという、ただそれだけで、その人物は「どう振る舞うか予測できない」要素として客の目には映る。
料理であれば衛生面や有害物質、創作物であれば作者が問題を起こし作品イメージを低下させないか、等々。
これを他メディアミックスの作者や、存在するかもしれない不誠実なスタッフと並列するのは、まず無理筋だろう。
先程の比喩に乗せれば、メディアミックスの作者(プロ)は単に『他店の料理人』というだけの話なので、基本的に公式と安心感の差異は無い。
「プロ」という肩書が客に最低限与える安心感を提供するとすれば、コンテ松さんという企画は最低限の安心感にすら届かない、マイナスからのスタートなのだ。

 

こればかりは断言になってしまうが、実際の仕事の質や人柄が不明瞭な場合、少なくともゼロから始まるプロの肩書を持つ人間の方が、マイナスから始まるアマより良いに決まっている。
それを腐女子が原因としてしまうと、では腐女子でないアマなら良いのか、スタッフにも腐女子がいたらどうするのかと、賛否両論ともの軸がズレていく。

 

安心感の有無という点で言えば、プロとアマの差は「ある」か「ない」だけだ。
そこに議論の生まれる余地はない。
にも関わらずtwitterを眺めていると、この問題が堂々巡り化する原因は、『拒否感』がきちんと言語化されていない部分にもあるように思われる。

 


以下補足。

補足1:
煩雑になるため後回しにしたが、
先述のレストランの例えでは、「プロの料理を求めてきたのに素人の料理を出すのか」という不満が出てくることも想定される。
実は一番嫌がられているのは明らかにこの点(プロとアマのセット販売)なのだが、これについては「せやな」としか言い様が無いので、あえてスルーしていた。
普段家庭料理や友人の手料理を楽しむ人でも、高級レストランにはプロの料理が目的で来る。
そこに同じ値段で素人の料理を出されれば、客は怒るだろう。
しかもプロの料理が食べたければ、素人の料理も含まれるコースを注文しなくてはならないうえ、その分の料金もしっかり取られるのである。
独占禁止法第19条における抱き合わせ商法は、以下を判断基準のひとつとしている。
「取引主体が取引の拒否及び取引条件について自由かつ自主的に判断することが可能かどうか」
https://corporate.vbest.jp/columns/552/
注釈として、コンテ松はあくまで特典のため、恐らくこの基準は当てはまらない。
しかし何故この企画が「取引主体が自由かつ自主的に判断」できる形態を取らなかったかは不思議でしかないし、そのために批判の的となったのは、企画の落ち度としか言えないだろう。


補足2:
特典は特典なので本編にお金を払えば良いのでは、という意見について。
「樽一杯のワインに一滴の泥水を入れれば、それは樽一杯の泥水になる」。
ショーペンハウエルエントロピーの法則)
余計な物を足したばかりに本体の魅力まで失われるのはままある事だ。
故事では「蛇足」と言った。それらは特殊な事例でも何でもない。
足のある蛇の絵を商品と認めるかは、顧客の判断に任せられる。


補足3:嫌なら買うな
コンテンツビジネスにおいて、“原作”はファンの購買を見込む基礎中の基礎の商品だ。
オリジナルアニメにおいての“原作”は、概ねDVD等の映像パッケージとなる。
原作をファンが買わなくても良いものと定義すれば、コンテンツビジネスの根幹がひっくり返る。
恐ろしい事を言わないで欲しい。

 

※原作=ファンの必需品だからこそ、この企画が批判を集めているとも言える。
原作が買わなくて良いものに分類されていれば、ここまでの議論とはならなかっただろう。

 

賛成派の感覚は?


「プロもアマも公式が監修すれば同じ」については、賛成派の感覚にも少し触れておきたい。
これは購入者が作者のバックグラウンドを気にするかどうかを基準とすれば、一定の納得感がある。
作品と作者は別物、と考えるタイプの方にとっては、それは確かに真実だという事だ。
もしくは引き続き料理で例えれば、シェフが許可した以上調理人がアマであっても責任はシェフにあり、シェフはプロなので安心だ、という考えに基づくものと思われる。

 

ただ、その感覚を完全に一般化できるかと言えば、それは少々難しいのではないかと自分は考える。
まず、責任の所在をシェフ=公式監修に置くとしても、その仕組みだけでは、問題の発生を防止する効果は無い。
何かあった時の責任はシェフが取ってくれても、何か起こらないためのストッパーにはなっていない、という事だ。
コンテ松の応募規約には問題発生時の項目もあるが、実際に何かあった時、一視聴者に全責任を負わせるのは難しいだろう。

 

もうひとつは、ハロー効果や権威主義などの認知バイアスが示す通り、作品と作者を関連付けて考える人間の方が多いという事。
正しいか正しくないかは別として、『作者が嫌なら作品も嫌』という感覚は、かなり一般的なのである。
バックグラウンドに縛られない評価基準を持つのは、全く悪い事では無い。むしろ評論等では大いに役立つ感覚だ。羨ましがる人間も多いだろう。
しかし、元々好き嫌いが基準でしかない趣味の領域で、嫌悪感を無視した判断を求めるのは些か酷に思える。

 


断っておくが、今までの議論は軸を捉えていない、だから議論を止めよう、などと言うつもりは毛頭無い。
この記事を書こうと思ったのは、賛否両論共があまりに腐女子にのみフォーカスされていたためだ。
殴り合うならより正確な主張で殴り合って欲しい。
少なくとも、反対派は自分の拒否感の根源を一度見つめ直してみてはいかがだろうか。

その結果、やはり腐女子が気に食わないとなればそれはそれである。

 


まとめると、コンテ松さんが拒否感を抱かれる原因は3点という事になる。

  • プロとアマのセット販売(選べない)
  • その媒体がいわゆる『原作』であるということ(コンテンツにおける必需品)
  • プロの安心感を打ち消すアマの不安感(本編DVD分の価値まで損失)

つまりは、この逆を何れか一つでも取れば一応の解決策となる。

  • セット販売をやめる(選択を可能にする)
  • 原作以外の媒体にする(メディアミックスなど)
  • アマではなくプロを採用する(最低限の安心感を回復)


レストランの比喩は、プロとアマの説明になれば、建築時の大工と素人でも何でも良いとは一応言い添えておく。